1 はじめに
こんにちは。もじのすけです。
今日は「活字離れ」について考えたいと思います。
「活字離れ」は、接する時間(=量)の問題ではなく、
読み方(=質)の問題だというお話です。
2 活字離れではなく、活字べったり
巷では「活字離れ」が話題になることがありますよね。
本当に活字離れが起きているのでしょうか?
「活字=紙に書かれた活字に限られる」とするならば、
老若男女問わず活字離れは起きているように思います。
私が接する「紙に書かれた活字」はほとんど本か新聞なのですが、
どちらも読む時間が減っています。
私の生活の中では、ネットで読む活字がほとんどです。
確かに「活字離れ」といえそうです。
でも活字は、紙に書かれたものに限りませんよね。
電車の案内表示や、お店の看板の活字もそうですし、
何より電子媒体を通じてよく見ますよね。
それでは
「活字=紙や電子媒体などに書かれた活字」と考えたら
どうでしょうか。
私も含むほとんどの人が、1日の中で
昔の人とは比べものにならないくらい
長い時間をかけて活字を読んでいると思います。
「活字離れ」というより
むしろ「活字べったり」といえそうです。
3 「活字離れ」は量ではなく質の問題
そうすると
「活字離れ」といわれる場合の問題は、
「活字と接する時間の長さ(=量)」が
問題なのではなさそうです。
ではなぜ「活字離れ」が取り沙汰されるのでしょうか。
結論を先に言うと、
「活字離れ」は、
「活字との接し方・読み方(=質)」の問題なのだと思います。
4 受動的に読む?能動的に読む?
皆さんは、
電子媒体で文章を読むとき、目が疲れていませんか?
目が疲れて、読むスピードが上がっていませんか?
私の場合は、
電子媒体で読むときと、紙で読むときとでは、
読み方が自然に変わっています。
電子媒体で読む場合は光が目に突き刺さる感じがして、
光を避けるようにして次の文字・文章を読んでいます。
結果的に、読むスピードが上がって
「浅読み」になっているんですよね。
文章の内容は理解できるのですが、味わえないんです。
「読んだ」というより「見た」に近い感覚になります。
文章や言葉から、
何かを連想したり(妄想したり)、
全然違うと思っていた言葉と繋げたりすることが
できなくなっています。
「受動的」な読み方になっている気がします。
逆に、紙に書かれた活字を見るときは
自分から目を向けて、
「能動的」に読み取っているように思います。
現代社会で生きている以上
大量に情報を受け取るために、
ネットの活字を読むことは欠かせないと思います。
ただ、
同じ人の同じ文章なのに、ネットの活字を読む場合と
紙媒体の活字を読む場合とでは、
受け止め方も感想も違ってくる。
そのことに気をつけないといかんな、
と個人的には思っています。
電子媒体と紙媒体で出版された本を購入する場合は、
どちらで買うのか、値段だけでなく、
その本から自分が何を吸収するのかを意識しないと
もったいないな、と思います。
5 媒体の違いは意識されていない
こうしてブログに書く場合には、
考えることができ、「能動的」になっていますが、
それは「書く」からであって、
「読む」ことの浅さは変わっていません。
また、
この話は、
寝転んで読むのと、座って読むのとでは、
受ける印象に違いがある、
という程度の話かもしれませんが、
姿勢とは異なり、
媒体はこれまで意識してこなかった点だからこそ
気をつけなければいけないと思います。
本や記事を読むとき、
何かの発想のネタ探しにする目的なのであれば、
電子媒体ではなく
紙のものを読むのがよいかもしれませんね。
6 まとめ
いきなり長い話になってしまいましたが、
要するに
「活字離れ」という言葉が意味しているのは、
活字と接する時間(=量)の問題ではなく
活字との接し方・読み方(=質)の問題
だと思います。
読み方が浅い(=質が低い)と、
いくら読んでも(=量が多くても)頭に残りにくい。
その結果、
読む人が、内容を理解し、抽象化する思考力が衰え、
新しい物を生み出す力、つまり応用力が弱まる。
この点が一番の問題だと思います。
この点については、機会を改めて考えたいと思います。
7 次回のお話
今回は「活字離れ」を通じて「読み方」についてお話ししました。
次回は、「活字と手書き文字の違い」を通じて
「書き方」について考えたいと思います。
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