もじのすけ の文字ブログ

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文字について考えたことをつづっています

文字と媒体の関係 (3)①活字が直接印字された紙

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【目次】

(冒頭の作品)

壽(寿)果樹図 明代

Sutra Cover with Seeded Fruit and the Character for Longevity (Shou)

Period:Ming dynasty (1368–1644)
Date:16th century
Culture:China
Medium:Silk double cloth

Sutra Cover with Seeded Fruit and the Character for Longevity (Shou) | China | Ming dynasty (1368–1644) | The Met

 

 

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もじのすけです。

 

今回は 

「文字と媒体の関係」シリーズの

第3回目です。

 

前回の記事はこちら。

文字と媒体の関係 (1)②手書き文字の紙の写し - もじのすけ の文字ブログ

 

 

1 はじめに

 

ちなみに

今回のタイトル番号が

(3)①になっているのは

間違いではありません。

 

このシリーズの中で 

前々回の記事は(1)①、

前回の記事は(1)②、

今回の記事は(3)①です。

 

これらは

今後の分類のための記号として

使っています。

 

話が進むにつれて

この分類番号が意味を持ってきます。

 

 

この

「文字と媒体の関係」シリーズですが

定期更新記事のときもあれば、

不定期更新記事のときもあります。

 

 

 

長いシリーズになると思います。

1回1回の記事は短くしようと思います。

適当なタイミングで

記事同士の関係図を作ろうと思います。

 

それではさっそく始めましょう。

 

 

2 現代の活字が直接印字された紙

 

突然ですが 

みなさんは、自分の身の周りで、

「活字が紙に直接印字された物」

といえば、

どんな物を想像しますか?

 

 

 

 

私の場合は、

まず思い浮かぶのは、

本です。

 

次に

WordやExcelで作った文書を

プリントアウトしたもの

が頭に浮かんできます。

 

それ以外に思いつくのは、

PDFの文書や

ネットで見つけたページを

プリントアウトしたものです。

 

他には、名刺でしょうか。

 

 

上のいずれも、

画面上に表示される電子文書を

印刷した物ですね。

 

 

 

3 活字が直接印字された紙の始まり

 

活字が直接印字された紙で

現存する日本最古の物は

文禄4年(西暦1595年)の 

「法華玄義序」

「天台四教儀集解」

です。

 

画像はこちらです。

国立国会図書館デジタルコレクション - 法華玄義序

国立国会図書館デジタルコレクション - 天台四教儀集解. 巻上

 

説明はこちらです。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

活字
かつじ


歴史

(略)

1592年、朝鮮侵略に際して小西行長(ゆきなが)らが、朝鮮の王城内の校書館の庫内で銅活字と活字版の道具をみつけ、日本に持ち帰った。これは豊臣(とよとみ)秀吉から後陽成(ごようぜい)天皇に献上され、天皇は側近の者に命じ、活字版で『古文孝経』を印刷させた。これが日本の活版印刷の始めである。現存する日本最古の活字本は、1595年(文禄4)の木活字を使った『法華(ほっけ)玄義序』『天台四教儀集解』である。美しい装丁と本阿弥(ほんあみ)光悦の流麗な書体で有名な嵯峨本(さがぼん)(慶長(けいちょう)後半期)には草書体の木活字が使われている。しかし漢字はその種類が多く、多数の活字を必要とし、また粘土や木の活字は高さが不ぞろいで印刷しにくいため普及せず、その後の出版は主として木版であった。


 1445年ごろ、ドイツでヨハネス・グーテンベルクが、鉛とスズの合金を溶融し母型に流し込んで活字をつくることに成功した。この活字で印刷した『四十二行聖書』はマインツグーテンベルク博物館などに現存する。これは従来の木活字などに比べ製造が容易で寸法が正確であったので、ヨーロッパ中に急速に広まった。
 西洋流の活字は、16世紀末に、キリスト教の宣教師であるイタリア人バリニャーノによって日本にもたらされたが、キリシタン禁制にあい消滅した。1848年(嘉永1)本木昌造(もときしょうぞう)はオランダ船がもってきた活字を買い、印刷所を創設した。その後、彼は、アメリカ人ガンブルWilliam Gamble(?―1886)から活字の製造法を教わり、また邦文活字の大きさの基準をつくって活版印刷を行った。これが日本における活字の出発点で、その後、製造方法、書体などがしだいに改良された。

 (略)

[平石文雄・山本隆太郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

 活字(かつじ)とは - コトバンク より)

 

 

 

 

文禄4年(西暦1595年)の 

「法華玄義序」

「天台四教儀集解」

とほぼ同時期に、

西洋印刷術による活字が広まっています。

 

伊東マンショ千々石ミゲル

中浦ジュリアン原マルティノ

4少年からなる天正遣欧少年使節

インドのゴアで帰りを待っていた

イタリア人宣教師バリニャーノと合流し

天正18年(西暦1590年)に

ヨーロッパから帰国しました。

 

かれらはその時に

グーテンベルク印刷機を

日本に持ち帰りました。

 

この機械で印刷された印刷物が

キリシタン版」と呼ばれています。

 

初めはローマ字で、

その後に

漢字、ひらがな、カタカナ(国字)で

様々な書物が出版されています。

 

キリシタンキリシタンばん)とは、近世初期(16世紀末-17世紀初め)に日本を中心にイエズス会によって刊行されたローマ字、あるいは漢字仮名による印刷物の通称である。キリスト教の布教のため、日本へ来たイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、同会の教育事業の一環として計画した。その計画は、必ずしも成功したとはいえなかった。しかし、50点以上の出版物が刊行され、また東アジアではじめて西洋印刷術によって印行された、書物・印刷史上重要な刊行物であり、ローマ字表記された当時の日本語口語文など、言語史上にも貴重な資料になっている。キリシタン版と呼ばれる書物群は、論者によって The Jesuit Mission Press in Japan [1][2]や日本耶蘇会[3]、吉利支丹版[4]などとも呼ばれ、細目は一致しないこともあるものの、日本においてイエズス会が刊行した書目を中心にすえる点では、大体一致している[5]。(略)
1.^ E. M. Satowによる
2.^ また、キリスト教研究では「日本イエズス会版」が妥当と看做すことが多い。海老沢、尾原・松岡を参照。
3.^ 幸田成友による
4.^ 新村出による
5.^ 富永a: 6-7。ただし富永らは断簡等までを含めた日本における印行物を全部数え、ラウレスは『キリシタン文庫』においてイエズス会資料として刊行物とともに写本類や追放後資料をも数えている。福島 (1973): 20-1。サルペ・レジイナ、十戒他断簡は出版物ではなく、数えないことも当然ありうる。福島 (1973): 54。

キリシタン版 - Wikipedia より)

 

ちなみに、

キリシタン版のローマ字版は

表音文字のローマ字の文章なので、

昔の日本語の発音を推測でき、

おもしろいです。

今と同じ漢字の言葉でも

当時の発音が今と違ったりすることが

わかります。

 

しかし、残念ながら

日本における西洋式の印刷の流れは

消滅してしまいました。

先ほどの引用文に書かれています。

 

 西洋流の活字は、16世紀末に、キリスト教の宣教師であるイタリア人バリニャーノによって日本にもたらされたが、キリシタン禁制にあい消滅した。 

(略)

[平石文雄・山本隆太郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

活字(かつじ)とは - コトバンク より)

 

 

ここで、もうひとつ脱線して

記事のご紹介を。

伊東マンショ千々石ミゲル

中浦ジュリアン原マルティノ

4少年からなる天正遣欧少年使節

ヨーロッパに派遣したのは、

大友宗麟大村純忠有馬晴信といった

キリシタン大名です。

 

このキリシタン大名

ローマ字のハンコについて

検討したのはこちらの記事です。

mojinosuke.hatenablog.com

 

 

ということで、

日本で

活字が直接紙に印字され始めたのは

1590年代

でした。

 

 

 

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Print

Artist:Utagawa Kunisada (Japanese, 1786–1865)
Artist: Ichiransai Kunitsuna (Japanese, mid-nineteenth century)
Period:Edo period (1615–1868)
Culture:Japan
Medium:Preliminary sketch for drawing intended as design for woodblock print; ink on thin paper

Utagawa Kunisada | Print | Japan | Edo period (1615–1868) | The Met

 

 

 

4 本格的に流通した時期

 

1590年代に活字が流通が開始した後には

嵯峨本

という木活字による活字本が

流通し始めました。

 

嵯峨本 - Wikipedia

概要


京都嵯峨の豪商、角倉家が本阿弥光悦らの協力を得て出版を行った。角倉本、光悦本ともいわれる。
16世紀末にキリシタン版や朝鮮半島を通じて活版印刷術が伝わったことに刺激を受けて、日本でも次第に出版が盛んになってゆくが、その最初期のものの一つが嵯峨本である。当時の京都には富を蓄積した商人、五山版以来の職人、読者層が存在していたことが嵯峨本が生まれた背景である。
藤原惺窩ら儒学者とも交友を持った角倉素庵(了以の子)が出版業を思い立ち、本阿弥光悦俵屋宗達らの協力で出版したものが嵯峨本といわれる古活字本である。17世紀の始め(慶長・元和期)に作られ、雲母刷の用紙を使ったり、装幀に意匠が凝らされた豪華本であった。

 

嵯峨本の伊勢物語上巻の

画像はこちらです。

国立国会図書館デジタルコレクション - 伊勢物語. 上

ぜひ見てみてください。

 

当時の本は続け字が当たり前でした。

それなのに、嵯峨本は

活字本でも自然な感じが出ています。

 

 

ところが、この嵯峨本の木活字は、

とても手間がかかるという理由で

手彫りの木版印刷に押されて

衰えてしまいました。

木活字


嵯峨本は、一文字/一活字で組み合わせるのではなく、光悦(素庵の説もある)が書いた縦書き、崩し字の文字を数字(2-3字など)単位で木活字に作り、組み合わせて製版していた。伊勢物語では約2100個の活字が作られ、加えて1度しか使わない活字が全体の16%にも及ぶなど制作に手間がかかった。繰り返し版を重ねるには木版印刷の方が容易であることから、やがて木活字は衰えてしまい、日本の印刷の歴史は活字印刷から木版印刷に逆行するような形となった。

嵯峨本 - Wikipedia より)

 

逆戻りした

木版印刷による版画の作り方を

知りたい方は、

前回の記事の

http://mojinosuke.hatenablog.com/entry/2017/09/07/110000#4手書き文字の紙の写しが本格的流通した時期

の中でご紹介した

京都の木版画工房の

竹笹堂さんのサイトをご覧下さい。

 

そこには、手書き文字入りの

木版画の作り方の動画があります。

 

この記事で再び引用しますね。

まだ見ていない方は下をご覧ください。

 

私の説明よりも、

動画を見た方が早いと思います。

 

竹笹堂さん

www.takezasa.co.jp

竹笹堂さんのサイト内動画です。

www.youtube.com

 

 

このように日本では、

活字は木版印刷に取って代わられ、

一旦衰えてしまいました。

 

 

 

それでは 

活字が直接印字された紙が

本格的に流通したのは

いつごろでしょうか。

 

本格的な流通の始まりは

明治初期

といってよいでしょう。

 

このころの

近代活版印刷の先駆者として

本木昌造の名前を

挙げないわけにはいきません。

最初のWikipediaの引用にも

ちょっとだけ出てきていました。

 

具体的な業績はここでは省略します。

もう少し詳しく知りたい方は、

こちらです。 

本木昌造 - Wikipedia

 

 

活字が直接印字された紙が

本格的に流通するきっかけ

となった本はこれです。

 

明治10年(1877年)に

秀英舎

(現大日本印刷(株)=現DNP

が出版した

「改正西国立志編

(日本初の純国産活版洋装本)。

 

DNPの沿革と

「改正西国立志編」の画像は

こちらにあります。

www.dnp.co.jp

 

その後、

「築地体」と「秀英体」という

2つの大きな活字の流れの中で、

活字が直接印字された紙(本)が

大量に刊行され、発展していきました。

 

その後、

印刷の方法の移り変わりはありますが、

現代まで、

活字が直接印字された紙(本)は

かなり流通しています。

 

 

ということで

活字が直接印字された紙が

本格的に流通した時期は、

明治期から現代まで

といってよいでしょう。

 

 

 

 

5 おまけ①

 

おまけですが、 

ややこしい問題を1つ

解決しておきたいと思います。

 

こう思った人はおられませんか。

 

「ちょっと待って。

 前の記事では印刷物の

 瓦版は、写しだったはずだぞ?」

 

「なのに、この記事では、

 同じ印刷物なのに

 活版印刷のときは

 どうして原本と扱うの?

 おかしくない?」

 

こんな風に考えた方が

もしおられたら、鋭いです。

 

 

 

 

たしかに鋭いのですが、

結論としては、

活版印刷

文字を直接印字した紙は

やはり原本です。

 

 

 

瓦版の工程を思い出してみてください。

 

瓦版のときには、

まず

絵師が文字つきの下絵を書く。

 

次に

その下絵から版木が作られる。

 

そして

摺り師が版木を紙に当てて摺る。

 

このような工程で

文字つきの版画が紙に印字されました。

 

つまり、最初に絵師が書いた

「紙に描かれた文字つきの下絵」が原本

でした。

 

だからこそ、その下絵を紙に摺った

「文字つきの版画」は写し

だったのです。

 

 

これに対して

活版印刷の時はどうでしょうか。

 

活版印刷の場合は、

印刷する前は

反転している活字を

組みあわせているにすぎません。

 

その時点では

「紙に描かれた」元の絵や文字が

存在しない

のです。

 

したがって、

活版印刷の場合は

紙に印刷されて

初めて出現した活字の文書自体が

原本となる

のです。

 

 

6 おまけ② 

 

似たような問題を

もう1つ考えてみましょう。

 

Word文書やExcel文書などの場合。

これはどうでしょうか。

画面上に文書が表れていますが、

紙には文書は表れていません。

 

これはかなりの難問です。

 

画面表示の文書  ・・・ 原本?

   ↓

プリントアウト物 ・・・ 原本?写し?

 

 

この場合に

プリントアウトされた物を

原本とするのか、

写しとするのか、は

考え方によるようです。

 

 

人によりますが、

私としては、

画面上の表示だけでは

「紙に書かれた」

元の文書がないので、

プリントアウトされた物が

原本であると考えます。

 

画面表示の文書  ・・・ 何物でもない

   ↓

プリントアウト物 ・・・ 原本

 

 

ということです。

 

 

 

 

7 まとめ

 

今回は、

(3)①活字が直接印字された紙

の話でした。

 

この長い記事を要約すると

こうなります。

 

「活字が直接印字された紙は、

 1590年代に流通が始まり、

 一旦衰えた後、

 明治初期から現代にかけて

 本格的に流通しました。」

 

 

 

これまでの記事の話は

前々回

(1)①手書き文字の紙

前回

(1)②手書き文字の紙の写し

今回

(3)①活字が直接印字された紙

でした。

 

この関係を表にするとこうなります。

 

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この次の話は、

(3)②活字の紙の写し

へと続いていきます。

 

 

 

 

歴史に触れるとどうしても

あれこれ紹介したくなってしまい

長くなってしまうようです。

 

 

 

今回も長文にお付き合いいただき

ありがとうございました。

 

おつかれさまでした。 

 

  まあいいか、と思える笑顔と袋 

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Hotei

Artist:Ogata Kōrin (Japanese, 1658–1716)
Period:Edo period (1615–1868)
Date:after 1704
Culture:Japan

Ogata Kōrin | Hotei | Japan | Edo period (1615–1868) | The Met

 

 

 

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