【目次】
(冒頭の作品)
Strip
Date:first half 20th century
Culture:Japan
Medium:Cotton
Dimensions:13 1/2 x 37 1/2 in. (34.29 x 95.25 cm)
Classification:Textiles-Painted and Printed
もじのすけです。
今回は、前回までの吉田松陰シリーズの流れからちょっと脱線した話をします。
長州(山口県)のお話つながりで「耳なし芳一」の話から考えていきましょう。
テーマは「1文字の範囲と文字の威力の範囲」です。
1 「耳なし芳一」のあらすじ【ネタバレ注意】
みなさんは「耳なし芳一」の話を知っていますか。
知っている方はこの「1」を飛ばして下さい。
そして「2」からお読み下さい。
「聞いたことはあるけど、実はよく知らない。」という方はこちらをお読み下さい。
上のリンク先のあらすじ本文を引用します。【ネタバレ注意】
あらすじ
昔、下関(赤間関、あかまがせき)の阿弥陀寺(あみだじ)というお寺に、びわ法師の芳一(ほういち)という男がいた。幼いころから目が不自由だったが、琵琶(ビワ)の腕は師匠をしのぐ程の腕前で、特に壇ノ浦の合戦の弾き語りは真に迫るものがあった。
ある蒸し暑い夏の夜、お寺で芳一がビワの稽古をしていると、身分の高い方からの使者がやってきた。ビワの弾き語りを聞きたい、というので、芳一は使者の後をついて行き、大きな門の屋敷に通された。さっそく芳一は、壇ノ浦の合戦を弾いて聞かせると、大勢の人がいるのかむせび泣く声が周囲から聞こえてきた。やがて女の声が聞こえ、「今宵より三夜間、弾き語りをして聞かせてほしい。またこの事は誰にも内緒にするように」と、告げられた。
朝、寺に帰った芳一は、和尚から不在を問い詰められたが、女との約束通り何も話さなかった。そこで和尚は、夜にこっそりと寺を抜け出した芳一を寺男に尾行させると、安徳天皇(あんとくてんのう)のお墓の前で、ビワを弾いている芳一の姿を見つけた。
平家の亡霊に憑りつかれていると知った和尚は、芳一の体中に経文を書いた。そして、誰が話しかけても絶対に声を出してはならない、と言い聞かせた。その夜、また亡霊が芳一を迎えに来たが、経文に守られた芳一の姿は見えなかった。しかし和尚が芳一の耳にだけ経文を書くのを忘れてしまったため、亡霊には両耳だけは見えていた。亡霊は、迎えに来た証拠に、と芳一の耳をもぎ取り帰って行った。
朝になって急いで様子を見に来た和尚は、芳一の両耳が取られている事に気が付いた。和尚は、かわいそうな事をしたと詫び、医者を呼び手厚く手当をした。傷が癒えた芳一は、もう亡霊に憑かれる事もなく、芳一のビワはますます評判になり、いつしか「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。
(紅子 2011-9-27 22:15)
「文字ブログは読むけど、文字を読むのはほんとはイヤだ!動画がいい!」
そんな駄々をこねる、わがままな人もいるかもしれませんね。
どうぞご安心下さい。この記事は、きちんと対応しています。
こちらの動画をどうぞ。(映像時間8分55秒)
■ コピーライト 「みみなしほういち」 出典:日本の昔話/文:平井里奈/絵:松尾達 森のえほん館(株式会社アイフリークモバイル)より http://ehonkan.jp
どうでしょうか、「耳なし芳一」の話を思い出されたでしょうか。
ちなみにオマケです。
最近暑い日が続くので、ヒンヤリとしたい人は、「耳なし芳一」を検索してみるとよいですよ。私はヒンヤリしますが、怖いものを見慣れている人は、刺激にならないかもしれませんね。
怖いものや気持ち悪いものが苦手な人はクリックしないで、「2」に進んで下さい。
閲覧注意 !
「耳なし芳一」をググって、画像検索結果を出したものです。
ちなみにセーフサーチを発動させても全く役に立ちませんでした。そんなこともあるのですね。
2 「耳なし芳一」の文字の威力
さて「耳なし芳一」のあらすじを思い出してもらったところで本題に入りましょう。
耳なし芳一について、ツイッター上でスドーさんのこんなツイートを見ました。
耳なし芳一は悪霊避けのために全身に経典を書いたわけだけれど、お経の文字は一文字だけでもその効果があるのか、それともある程度テキストとしてまとまらないと聖性を発揮しないのか、気になって話に集中できない
— スドー🌿 (@stdaux) June 22, 2018
似た疑問として、のんぱるさんのツイート。
耳無し芳一で疑問なのは、お経のカバー出来る範囲なんよね。墨で真っ黒だとお経じゃないのは分かるやん? でも、文字と文字の間は、文字の隙間は多分セーフなんやろ? じゃあ、一文字がカバー出来る範囲はどのくらいまでなのか、これってトリビアに(ry
— のんぱる (@nonpal) August 19, 2014
私の疑問も、スドーさんや、のんぱるさんと同じなのです。
耳なし芳一の「耳」はいいのです。どうせ取られますし。(冷たい)
私にとって問題なのは、「お経の威力の範囲」つまり「書いた文字の線の威力の範囲」なのです。
みなさんも一緒に考えてみて下さい。
たとえば「仁」はどうでしょうか。
右の「二」の2つの横線の間は空いていても大丈夫なのでしょうか。
この間に相当する芳一の身体は、平家の亡霊たちに見つけられてしまうのではないか。
もっと悩ましいのは「一」です。
1文字単位で見れば、もはやどこにも「間」なるものがありません。むしろ横線1本以外に広大なスペースが広がっています。
この「横線1本」は、いったいどこまでのスペースを支配するのでしょうか。
1文字単位の疑問をとりあえず置いておいて、さらに考えてみると、1文字と次の1文字の間が気になってきます。
1文字1文字の間には文字の威力が及ばないかもしれません。
この場合には、芳一の身体は「うっすら」と見えてしまうのではないか。
これに対して「お経の効力は1文で考えるべきであり、1文字単位で考えてはいけない。」という考えの人がいるかもしれません。
つまり1文単位で考える。
なるほど、そう考えれば「仁」みたいな1文字の中でのスペースを考える必要はないでしょう。また、1文の中で1文字と次の1文字の間は、気にしなくてもよいでしょう。
ですが、1文に威力があるとしても、まだ問題は残ります。(しつこい!)
1文字と1文字の間ではなく、1文と1文の間に問題は発生します。
さらに、1行と1行の間つまり行間も危険なはずです。
「しつこいなあ。」「お経は全文で威力があるんだよ!」という人がいるかもしれませんね。全文で考える。その考え方なら、1文と1文の間や、行間は何とかなりそうです。
ですがちょっと考えてみて下さい。
「余白」はどうするのでしょうか。(超しつこい!)
おそらく「耳」は余白だったのでしょう。
それでは、書き始めよりも前の余白と、書き終わりよりも後の余白、文章のまわりの余白は、どうなるのでしょうか。
和尚様は、そのような余白が生じないようにビッチリ書いたのかもしれませんね。耳以外は。
「お経(文字)の威力は全文で考える。」「でも余白には及ばない」
そんな理解の仕方が一番説明しやすそうです。
3 「1文字の範囲」と「文字の威力の範囲」
もう少し考えてみましょう。
結論から先に言いますと、
私は「余白」にも文字の威力が及ぶと思っています。
ですので、耳なし芳一の話は疑わしいと思っています。
下は、吉田松陰が処刑される数日前から、自らの魂を留め置くとして書いた書状「留魂録」の出だしです。
「書の日本史〈第7巻〉幕末維新 」(今井庄次編)(平凡社 初版 昭和50年)P118、119
「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」
この「留魂録」の右ページの「余白」には、吉田松陰の文字の威力(≒魂)はこもっていないのでしょうか。
私は、こもっていると思います。
「余白」を含めた書状全体に吉田松陰の文字の威力(≒魂)がこもっていると思います。
他方、私の中では、1文字1文字の範囲は大体こんな感じで理解しています。
多くの人も同じ感覚ではないかと思います。
【1文字の範囲】
つまり
1文字1文字の範囲と
文字の威力の範囲は、別だと思っています。
1文字1文字の範囲について、もう少しだけ検討しましょう。
一筋縄でいかない場合があるのです。続け字であったり、1文字1文字が食い込み合っていると、「1文字の範囲は一体どこまでか」が悩ましくなります。
たとえば過去記事でご紹介した、室町時代の一休宗純の字を見てみましょう。
こちらです。
「書の日本史〈第4巻〉室町・戦国」(今井庄次編)
(平凡社 初版 昭和51年)P109、110
本文1行目の「學」「失」
2行目の「歌」「直」「千金」
3行目の「暮」
最終行の「吟」
わかりますか。どの字をみても、続け字の線が出てきたり、上下左右斜めのどこかに別の字の線が食い込んでいます。
私は、この場合は1文字1文字の範囲が多少重なり合っていると理解しています。
これに対し、過去記事の夏目漱石の字を見てみると話が違ってきます。
「坊っちゃん」の草稿の1頁目。 (直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ヴィジュアル版 6V) の68ページの一部。)
「親譲り」 「無鉄砲」 「夏目」
夏目漱石の字を見てみると、続け字ではなく原稿用紙のマス目に従って書いています。手書き文字でさえ、1文字1文字が独立し、干渉しない、活字的な用法になっています。1マス1マスが1文字の範囲になっているといえるでしょう(「夏目」は2マスずつですが)。
【余談】
ちなみに、もじのすけとしては、この用法になっているのは、明治期になり、マス目の原稿用紙や活版印刷(金属活字)が流通し始めたことが影響していると思っています。
【余談終わり】
結局1文字の範囲は、マス目の原稿用紙の1マスくらい。
つまり「だいたいその1文字よりもやや広い四角形」。
これがもじのすけの考える1文字の範囲です。
話を吉田松陰に戻しましょう。
「書の日本史〈第7巻〉幕末維新 」(今井庄次編)(平凡社 初版 昭和50年)P118、119
私はなぞってみて感じるのですが、吉田松陰の1文字1文字、もっと言えば、1画1画に魂がこもっていると思います。
そして、その吉田松陰の魂の威力(≒吉田松陰の文字の威力)は文字の線以外の部分である「1文字の線(1画)の間」→「1文字と1文字の間」→「1文と1文の間」→「行間」と「余白」にまで及ぶと思います。
そして結局、「書状の全体」に及ぶと思います。
もじのすけの考えをまとめると以下のとおり。
(1)1文字の範囲は「だいたいその1文字よりもやや広い四角形」
(2)文字の威力は全文で考える。「余白」を含む書状全体に及ぶ
そうやって考えると、
「どこまでが文字か」という問題と
「文字の威力がどこまで及ぶか」という問題は
分けて考えるべきだと思います。
日本文化と西洋文化にからめて、この話は続くかもしれません。
おつかれさまでした。
Portraits of Eminent Scotch Characters
Artist:Drawn and etched by John Kay (British, Dalkeith, Scotland 1742–1826 Edinburgh)
Date:1784–1819
Medium:Etching
Dimensions:Overall: 12 3/4 x 9 3/4 x 2 3/16 in. (32.4 x 24.8 x 5.6 cm)
Classifications:Albums, Prints
上杉謙信の手書き文字から作った
「けんしんフォント」無償公開中
【ダウンロードはこちら】
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http://mojinosuke.hatenablog.com/entry/2017/04/06/130000
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