もじのすけ の文字ブログ

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文字について考えたことをつづっています

文字を見比べてみた ~京都「五山の送り火」の「大」の字は、安土桃山時代の関白近衛信尹(のぶただ)の字なのか?~

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 【目次】

 

 

(冒頭の作品)

東海道五十三次 京 三条大はし
Kyoto
Artist:Utagawa Hiroshige (Japanese, Tokyo (Edo) 1797–1858 Tokyo (Edo))
Period:Edo period (1615–1868)
Date:ca. 1848–49
Culture:Japan
Medium:Polychrome woodblock print; ink and color on paper
Dimensions:Overall: 8 3/4 x 13 3/4 in. (22.2 x 34.9 cm)
Classification:Prints

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/37249?sortBy=Relevance&ft=kyoto&offset=0&rpp=20&pos=1

 

 

 

 

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もじのすけです。

 

今日は8月16日。京都のお盆の終わりを告げるイベント「五山の送り火」の日です。京都の人は、五山のどこかの文字を眺めようと表通りに出て、ワイワイガヤガヤしているようです。

「大」文字といえば、銀閣寺の背後の山の「右大文字」と、金閣寺の背後の山の「左大文字」があります。

 

 

1 右大文字の「大」は近衛信尹の字?

 

こんなとき、素朴な疑問がわき起こってきます。

 

大文字の「大」って誰の字なんだろうか?

 

こんなときは、物知りの知人かグーグル先生に教えてもらうのが一番早いです。

 

ということで教えてもらいました。

 

知人の答えを先にお伝えしますと

「諸説あり」 だそうです。

 

知人の答えは、京都市観光協会のサイトをもとにしていたようです。

 

そこで、もう少し自分で調べようと、グーグル先生のご紹介を受けてみました!

 

そんなわけで右大文字について見つけたサイトはこちらです!

 

「点火の起源」(京都市観光協会

・・・結局同じサイト(笑)

 

https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/kigen.html 

 

 このとてつもない行事が、誰が何時はじめたものであろうか、という疑問があるが、残念ながら、それぞれ俗説はありながら、不思議と確実なことはわからない。
如意ケ嶽の大文字については、これが送り火の代表的なものであることから俗説も多く ① 時期は 平安初期、創始者空海、 ② 室町中期、足利義政、③ 江戸初期、近衛信尹などがあり、

①は「都名所図絵」などに記されるところで、往古山麓にあった浄土寺が火災にあった際、本尊阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明をかたどって点火したものを、弘法大師空海)が大の字に改めたというのであるが、その後近世に至るまで如何なる記録にも大文字のことが記されていないから全くの俗説にすぎない。空海に仮託された起源説は其の他数説あるが、(「大文字噺」「山城四季物語」等)いずれもとるに足らない。
足利義政創始者とする「山城名跡志」説は、義政の発意により相国寺の横川景三が指導して義政の家臣芳賀掃部が設計したとしている。(義政が義尚の冥福を祈るために横川が始めたというのも同様のこと)
近衛信尹の説は寛文2年(1662)に刊行された「案内者」によると次の如く記されている。

山々の送り火、但し雨降ればのぶるなり…
松ケ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ。 

著者の中川喜雲は寛永13年(1636)生れであり、慶長19年(1614)に歿している信尹と年代的にあまりはなれていないこと、また信尹は本阿弥光悦松花堂昭乗とともに寛永の三筆といわれた能筆家であることそれ故信尹に仮託されたと考えられないこともないなどから、この説の妥当性が考えられる。いずれにせよ、大文字送り火はおそらく近世初頭にはじめられたものと思われる。近年大文字送り火に関する古文書、ならびに大文字山銀閣寺領であったという資料が銀閣寺から発見され、これらの記録から送り火は室町中期足利義政創始者とする説がもっとも正しいように思われると地元ではいっている。

 

近衛信尹(このえ のぶただ)説は、それほど離れていない時代の人に解説されているので、かなり有力ではないかと思えてきます。

京都市観光協会のサイトの説明からは分かりませんが、対抗馬となりうる②足利義政説がどこまで有力か。それは、銀閣寺から出てきたとされる古文書の内容しだいでしょうね。それを見てみないとよく分かりません。

 

具体的な解説がされた近い時代の書物があるので、私の目には3説のうち、近衛信尹(このえ のぶただ)説が一番有力のように見えてきます。

 

(平成30年8月18日追記)

足利義政説ではなく③近衛信尹説をとる理由をもう1つ添えておきたいと思います。

それは洛中洛外図屏風歴博甲本)」重要文化財)です。

この屏風は16世紀(1500年代)に描かれたものと言われています。右大文字があるはずの如意が嶽(にょいがたけ)のところを見ても、「大」の字は、出てきません。

足利義政(1449年~1473年)が右大文字を作らせ、そこから続いたのであれば、「大」の字のような目立った特徴は当然描かれたはずです。ところが、滝が描かれているだけで、「大」の字はどこにも出てきません。

 

他にも同時期の洛中洛外図屏風に描かれているという話は聞いたことがありません。

 

つまり右大文字の送り火が始まったのは16世紀(1500年代)ではないのでは?という感じがします。

 

洛中洛外図屏風歴博甲本)」右隻第5扇「によいかたけ」

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https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/nature04.html より

 

「私は自分の目で確認したい!」という方はこちらをどうぞ。右隻の高精細画像です。如意が嶽(「によいかたけ」)は、真ん中のやや左寄り(左から2番目の扇=右から5番目の扇(第5扇)の最上部にあります。

洛中洛外図屏風(歴博甲本)右隻 〔高精細画像版〕

 

 

国宝上杉本洛中洛外図屏風(原本は米沢市上杉博物館蔵) の右隻に描かれた如意が嶽(「にょいがだけ」)にも「大」の字はありません。

国宝・洛中洛外図屏風(上杉本)をパソコンからご覧いただけます - ギャラリー洛中洛外

 

絵の内容から、景観年代は室町幕府13代将軍足利義輝の時代で、永禄4年(1561年)以降[9]と推定されている。また、絵が完成したのは永禄8年(1565年)9月3日、織田信長から上杉謙信に贈られたのは天正2年(1574年)3月とされている[10]

洛中洛外図 - Wikipedia の上杉本の説明より)

 

上杉本は1561年以降、織田信長から上杉謙信に贈られた1574年までのどこかで作成されたとのこと。その間の一時点では、まだ右大文字の送り火は無かった可能性が高いですね。

 

その他の洛中洛外図屏風を調べてみたのですが、そもそも如意が嶽が描かれていないように見受けられます。

 

(以上追記終わり)

 

 

どうも①空海説や②足利義政説は違いそう。

 

そうだとしたら 

大文字の「大」を書いたのは誰か?

近衛信尹のぶただ)説は果たして正解なのか?

 

もう少し調べてみましょう。

 

 

 

2 近衛信尹ってどんな人?

 

近衛信尹は、安土桃山時代から江戸時代初期まで生きていた公家の人です。

近衛信尹 - Wikipedia

 

「近衛」の名字から予想がつくとおり、超名門の家柄です。

近衛信尹は、お父さんの近衛前久(さきひさ)も、お祖父ちゃんの近衛稙家(たねいえ)も、関白です。そんな家柄ですから、近衛信尹も、左大臣になった後にいずれ関白の座を受け継ぐのは確実でした。

 

そんなスーパーお坊っちゃんですが、左大臣まで出世したあたりで時代の激流に巻きこまれます。武家が2代続けて関白になってしまうのです。

 

その武家とは 豊臣秀吉豊臣秀次

彼らに先を越されてしまうのです。

 

近衛信尹は、その悔しさからか、突飛な行動に出てしまいます。

 

公家ではありますが、もともと武家にあこがれていたらしく、豊臣秀吉による朝鮮出兵文禄の役」に参加しようと思い立ちます。そして公家でありながら肥前名護屋まで行き、渡航しようとします。この暴挙が後陽成天皇の怒りに触れ、鹿児島まで配流されてしまいます。

幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという[1]。秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、文禄元年(1592年)12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言[2]したために天皇や秀吉の怒りを買い、文禄3年(1594年)4月に後陽成天皇勅勘を蒙った。

信尹は薩摩国坊津に3年間配流となり[3]、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。

Wikipediaより)

 

近衛信尹のぶただ)の突飛な行動は、父親ゆずりなのかもしれません。

 

父親である近衛前久(さきひさ)も、(おそらく上洛してきたときに知り合った)上杉謙信と意気投合し、関白でありながら越後国まで行ってしまいましたので。 

 

そして近衛信尹は最後にはこうなりました。 

信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し[7]、家康から所領安堵確約を取り付けた。慶長6年(1601年)、左大臣に復職。慶長10年(1605年)7月23日には念願の関白となる。

Wikipediaより)

いろいろ問題が起こりましたが、近衛信尹は念願の関白になれました。確実視される中で足踏みし続けていた苦労が実ってよかったですね。

 

(平成30年8月18日追記)

先ほどご紹介した洛中洛外図屏風歴博甲本)が作られたと言われているのは、16世紀(1500年代)です。そこには「大」の字は描かれていません。

そして、右大文字の送り火は、遅くとも、先ほどご紹介した「案内者」(中川喜雲 1636年生まれ)が刊行された寛文2年(1662年)までには存在したようです。

 

近衛信尹左大臣に復職してから(1601年)、関白になり(1605年)、亡くなる(1604年)までの間に(または亡くなってから)右大文字の送り火が始まったとみるのは、自然のように思われます。

 

(以上追記終わり) 

 

3 近衛信尹の手書き文字

 

そんな近衛信尹のぶただ)ですが、書の才能がありました。

 

書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。また連歌仲間の黒田孝高に宛てた書状も美しい筆致で書かれ、孝高が筑前福岡に移る惜別の情をしたためている。

 (Wikipediaより)

 

それでは、もじのすけが持っている本に載っている近衛信尹の書をご覧下さい。

 

出典は「書の日本史〈第5巻〉安土桃山・江戸初期 」(今井庄次著 1975年 平凡社
P97、P98です。

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釈文と並べてみます

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 (釈文は斎木一馬氏)

 

見る人の好みもあるでしょうけれども、明らかに美しい字です。

 

「黒髪乃(黒髪の)」

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「髪」のしなやかさ。「乃」の左下への伸びやかさ。

美しすぎてため息が出ます。 

 

 

「袖乃(袖の)」

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この「袖」の字の縦の線と全体のバランスを見れば、近衛信尹の書の基本がとてつもなくしっかりしていることがうかがえます。

そして、またしても「乃」の字は優美。

こんなしっかりした文字や優美な文字を見つめていると、「マジでスゲー」という言葉だけが浮かんでしまいます。

 

そして

「祐子内親王」の「祐」

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「右」の左ハライがダイナミックです。

 

同様に堀川の「堀」の左ハライを見てください。

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「土」からの「左ハライ」。圧巻です。

 

 

突然ですが、さあ、いきなり見比べてもらいましょう!

 

「左ハライ」に注目してください。

 

右大文字の「大」

 

 

点火したらこうなります。

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点火前はこうです。

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拡大します。

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(3つとも 五山送り火 - Wikipedia (佐野宇久井氏撮影)より)

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(黄色い線はもじのすけが書き入れました。)

 

右大文字の「大」の字の左ハライ。

その書き始めは真上からではありません。右上から左下へ。書き始めからナナメです。そしてナナメの直線は僅かに反っています。

 

そして、近衛信尹の「祐」「堀」

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どうでしょうか。似てますか?

 

右上から左下へとナナメに書き下ろされ、僅かに反った直線。

 

うーん。似ていないかと言えば、似ている。

正直に言えば「似ていなくもない」という感じ。

 

そもそも山の斜面は曲がっていますよね。そのことも考慮した方がよいのかどうか・・・。

とにかく自信がありません。

 

近衛信尹の書状で「大」の字を見るのが一番よいのですが・・・。

そうでなくても、近衛信尹の直筆書状をたくさん見れば、分かると思うのですが・・・。

誰か、近衛信尹のネット公開資料で漢字がいっぱい書かれたものを知りませんか?

ご存知の方は是非教えてください!

 

 

 

 

 

京都「五山の送り火」の右大文字は近衛信尹のぶただ)の手書き文字なのか?

 

今回は

「似ていなくもない」

というまことにモヤモヤとした結論になりました。

 

 

 

おつかれさまでした。

 

 

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近衛信尹筆 渡唐天神図
Tenjin Traveling to China
Artist:Konoe Nobutada (Japanese, 1565–1614)
Period:Momoyama period (1573–1615)
Date:late 16th century
Culture:Japan
Medium:Hanging scroll; ink on paper
Dimensions:Image: 38 7/16 × 16 13/16 in. (97.7 × 42.7 cm)
Overall with mounting: 72 1/16 × 17 13/16 in. (183 × 45.3 cm)
Overall with knobs: 72 1/16 × 19 13/16 in. (183 × 50.4 cm)
Classification:Paintings

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/670979?searchField=All&sortBy=relevance&ft=kao&offset=0&rpp=80&pos=35

 

 

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