もじのすけ の文字ブログ

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文字について考えたことをつづっています

江戸時代の怪僧天海僧正は明智光秀なのか ~2人の筆跡を比べてみた~

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【目次】

 

 

(冒頭の作品)

A Sepulchral Enquiry into English History
Artist:George Cruikshank (British, London 1792–1878 London)
Publisher:M. [or W. N.] Jones (London)
Date:June 1, 1813
Medium:Hand-colored etching

George Cruikshank | A Sepulchral Enquiry into English History | The Met

 

 

 

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もじのすけです。

 

前回の記事が気合いが入りすぎてしまいましたので、今回は軽い記事です。

 

仕事が忙しいのでちょっと手を抜い・・・ゲフン、ゲフン。読みやすさに徹して、軽めにしました。とにかく気楽に読んでもらえたら嬉しいです。

 

今回は、明智光秀天海僧正が同一人物ではないかという噂を、2人の筆跡から検討してみたいと思います。

 

 

 

本能寺の変織田信長を討ち、山崎の戦い豊臣秀吉に敗北した明智光秀にはこんな噂があります。

 

明智光秀は、山崎の戦い豊臣秀吉に敗れ、落ち武者狩りで殺された、または致命傷を受けて自害したといわれている。だが本当は生き延びて、僧となり、天海として徳川家康の参謀になり、徳川秀忠徳川家光にも影響を及ぼした。」

 

この噂ははたして本当でしょうか。

このブログは文字ブログですから、2人の情報を紹介してから、2人の筆跡を比べて検討してみたいと思います。

 

大量に引用しているので、時間の無い人は引用部分を適当に読み流して、2人の筆跡の画像に注目して下さいね。

 

  

1 明智光秀の性格と筆跡

 

まずは、明智光秀の紹介です。

 

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明智光秀像(本徳寺蔵)( Wikipediaより)

 

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名

戦国大名織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも[11]致命傷を受けて自害したともされる[12]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。

光秀の本姓源氏清和源氏摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 7]。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。

 

 

 

いろんな説がありますが、私の明智光秀観を支えているのは、いくつかの書です。

まずは、織田信長が重臣であった佐久間信盛を19条にわたって非難した折檻状。その書状に書かれていた内容です。

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

佐久間信盛 - Wikipedia より

 

織田信長明智光秀の名を豊臣秀吉よりも先に挙げています。明智光秀の才能に対する厚い信頼を感じさせますね。これだけ信頼していた武将に謀反を起こされたのですから、織田信長にとって、本能寺の変は青天の霹靂(へきれき)だったに違いありません。

 

 

次に、当時の宣教師ルイスフロイスの「日本史」から。ルイスフロイス明智光秀をこのように評しています。

「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
「裏切りや密会を好む」
「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」

明智光秀 - Wikipedia

 

散々な言いようですね。まあ、「日本史」を読む限り、ルイスフロイスは好き嫌いがはっきりした人物です。少なくとも明智光秀のことが嫌いだったことが伝わってきます。ただ、ずるいとまで言われているのですから、明智光秀が抜け目のない人物であったことは間違いないでしょう。

 

 

それでは、このような性格といわれている明智光秀の書状を紹介しましょう。

 

もともと、明智光秀の娘玉子は絶世の美女と言われる細川ガラシャ。そのガラシャ細川忠興に嫁入りし、細川藤孝細川忠興親子と明智光秀は親しい関係にありました。

 

そこに起こった本能寺の変(1583年6月2日)。

その熱さめやらぬ6月9日当時、細川藤孝織田信長追悼の意向を表明して剃髪・出家。家督細川忠興に譲り、親子は明智光秀への協力を拒否していました。

明智光秀は、この状態の細川藤孝細川忠興親子に向けて、加勢をなおも願う書状を送っています。明智光秀の書状の記載には哀愁が漂っています。

 

その書状がこちら。明智光秀の筆跡はこんな感じです。

 

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(「書の日本史〈第5巻〉安土桃山・江戸初期」 (1975年 平凡社) P80、81  より)

 

明智光秀の手書き文字の雰囲気だけ覚えておいてください。

今回は軽めの記事なので、解説は別の記事にしましょう。 

 

 

 

2 天海僧正の業績

 

次は天海僧正です。

Tenkai.jpg

天海像(輪王寺蔵)(天海 - Wikipedia より)

 

みなさんは、天海僧正を知っていましたか。

わたくし、実は・・・天海僧正の業績をあまり知らないのです。 

徳川家康の参謀であった、ということくらいです。

 

 

あとは「あずみ」(作者小山ゆう 小学館)という漫画の主人公あずみを見守る大物というイメージです。怪僧という雰囲気は変わりません。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF-1-%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B0%8F%E5%B1%B1-%E3%82%86%E3%81%86/dp/4091835414

 

映画「あずみ2」では、南光坊天海役は佐藤慶でした。イメージに合っていて、適役だと思います。

www.cinematoday.jp

このサイトの真ん中当たりの画像に、白い頭巾をかぶったお坊さんが映っています。それが、おそらく天海僧正です(ぼやけていますが)。

 

まあ「あずみ」はフィクションなので、紹介はそこそこにしておきましょう。

 

 

 

さて、この天海僧正。怪僧といわれるだけあって、Wikipediaの説明も異様な雰囲気です。

天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。

 

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。

また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる

 

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長などの赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。

慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。

天海 - Wikipedia

 

話が大きすぎてどこまでが天海僧正の本当の業績かわかりません。

 

天海は、徳川家康が絶大な信頼をよせた僧であり、徳川秀忠徳川家光にも関わったことは間違いないようです。

 

 

3 天海僧正明智光秀なのか ~2人の筆跡を比べてみた~

 

この天海は、はたして死んだはずの明智光秀だったのでしょうか。

Wikipediaによると、こんな感じで明智光秀天海僧正の同一人物説が紹介されています。

 

引用が長いので、急ぐ方は引用部分を適当に読み飛ばしてくださいね。

 

南光坊天海説
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年5月)
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。


異説の根拠として、

1 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
2 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
3 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測。
4 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
5 関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には学僧であるはずの天海が家康本陣に描かれており、大阪城天守閣には、その時に天海が着たとされる鎧が残っている。
6 光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけたこと。
7 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
8 童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説。
9 天海が亡くなったときの布施帳(寛永寺蔵)によると、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海会津出身説によると天海にゆかりがあるといわれる龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。
10 喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存している[96]。光秀は鉄砲の名手であった。
11 『東叡山開山慈眼大師縁起』によると、家康と天海が初めて対面したときには、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張ったとある。
12 比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある。
13 本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。
14 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
15 徳川家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾庄兵衛の縁者の三沢局が採用されていること。

 

15個も理由が挙がっていますが、今ひとつ説得力を感じないですね・・・。

 

しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。

1 日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない。
2 『東叡山開山慈眼大師縁起』では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。だが一方、「天海の素性を弟子達が尋ねたところ「出身地も俗名も生年も忘れてしまってから久しい。私は仏門に入った人間だ。俗人であったときのことなど、お前たちが知ったところで何の意味もない」と答えられたため師の氏素性は誰も知らない」と『東叡山開山慈眼大師縁起』に書かれている。
3 天海が光秀であるとすると、(享禄元年(1528年)出生とした場合)数え116歳で没したことになる(天海側の資料でみると、天海は100歳以上の長命であったとはされるものの、比較的有力な説に、数えで108歳没というものがある)。だが、一般に光秀の生年とされるものは確たる根拠のあるものではなく、高柳光寿は光秀の生年はわからないと結論づけているので、光秀の年齢についてはこの場合障害とはならない。
4 諱については、秀忠の秀の字は結城秀康毛利秀元小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものである。また、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった以心崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。

いずれも 明智光秀 - Wikipedia より

 

もともとの理由が曖昧だからか、反論もスッキリしない印象を受けます。

 

これだけだと、モヤモヤしてきます・・・。

 

はたして天海僧正明智光秀なのか。

 

 

 

 

スッキリさせるために天海僧正の筆跡を見てみましょう!

 

 

全体 

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右半分

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左半分

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(「書の日本史〈第5巻〉安土桃山・江戸初期」 (1975年 平凡社)P190、191  より)

 

天海の手書き文字の雰囲気だけ覚えておいてください。

文字も多いですし、今回は軽めの記事なので、解説は差し控えます。

 

 

2人の筆跡を連続で示しますよ。さあ見比べてみてください!

 

明智光秀の字

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天海の字

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どうですか。似てますか?

 

私は似ていないと思います。

 

参考に2つの字だけ挙げておきます。「国」(くに)と「但」(ただし)の字です。

 

明智光秀の「国」

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天海の「国」

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書き方が全然違う!

 

 

明智光秀の「但」

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天海の「但」

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これも書き方が違う!

 

みなさんはどう思われたでしょうか。詳しくは解説しません。ザックリした印象で十分だと思います。

 

 

もじのすけの結論は、

明智光秀と天海は別人

です。

 

 

軽めの記事とは言いながら、長くなってしまいました。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

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Nihon Rekishi Gaho nos. 1–10
Illustrated Journal of Japanese History no. 1-10
Date:1892–1893
Culture:Japan
Medium:Set of ten volumes

Illustrated Journal of Japanese History no. 1-10 | Japan | The Met

 

 

 

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