【目次】
【2017年5月24日追記あり】
もじのすけです。
今回は、毎週木曜日の定期更新とは別の不定期更新記事です。
もじのすけが文字と言葉に囲まれている、という話です。
1 わが家の連絡板
ある日仕事を終えて自宅に帰ると、冷蔵庫に貼られた連絡板に次のような連絡が書いてありました。どうやら娘の字のようです。
「お父さん 何じに帰ったかかいてね♡」
その下の1つ目の四角の中の文字は不明です。拡大してみると、2文字目、3文字目は、「仕事」と書いてあるようにも見えます。
1文字目はさっぱりわかりません。
2つ目の四角は回答欄です。「 時 分」までは用意されていました。
かなり小さい回答欄でしたが、指示どおりに帰った時刻を書き込んでみました。ということで、上の写真の「23」と「30」は私の字です。
そのあと私は、おフロに入って寝ました。
朝になると娘が私の寝室に入ってきて、二言三言会話をし、出ていきました。
私は寝ぼけていたので、何の話をしたかは覚えていません。
ただ、少なくとも冷蔵庫の連絡板の話題ではありませんでした。
その後、娘が学校に行った後のリビングに行ってみると、「いってきまうす♡」と娘の名前を表すマークの書き込みがありました。写真を再掲します。
写真はここまでのやりとりが終わった後に撮影したものです。
残念ながら「いってきまうす♡」と書いてあるだけで、私の回答に対するリアクションはありませんでした。
私の睡眠時間を計算し、私を強めに起こすかどうかを判断する材料にしていたのでしょうか。娘が私に何を聞きたくて何を言いたかったのか、よくわかりません。
ただ私としては、寝室で直接会って話したのに、別のルートで違う内容の言葉のやりとりをしたことに、コミュニケーションの面白さを感じました。
ちなみに、うちの冷蔵庫の連絡板は本当は連絡板ではありません。妻の家事の備忘録です。妻は「全然関係ないことを書き込んで。。」とおかんむりでした。
親子間で、このような連絡板(備忘録?)ではなくショートメールやLINEでやりとりをしているご家庭も多いことでしょう。
ありきたりな感想ですが、コミュニケーションの手段が多い方が、手段の性質に応じて言う内容が変わったりして面白いですね。
他方で、話題に応じてどのコミュニケーション手段を選ぶかは1つのニュアンスになります。その意味では、「手段の選択もけっこう気をつかうなあ」と感じるところです。
みなさんは、ご家族とどのような手段で言葉のコミュニケーションをとっていますか。
何のやりとりにどのコミュニケーション手段を使うか。ご家族ごとに違っていそうですね。
周りの人に聞いてみたいところです。
2 昔の生活
みなさんは、この記事を読んでここまでお付き合いされているので、言葉を使って暮らしているといえますよね。
逆に、言葉を使わない生活を送ったことはありますか。
私の場合は、言葉をできるだけ使わなかった時期があります。私の人生で一番言葉をしゃべらなかった時期は、学生時代に独り暮らしをしていたとき(の一時期)です。
毎日毎日、家と大学の図書館を往復するだけ。言葉を発するのは食堂のおばちゃんに注文するときだけ。つまり、言葉のコミュニケーション手段としては、1日の中で「〇〇下さい。」だけ。わずか数文字です。
当時はかなり変人になっていたと思います。(人の文字をなぞっている今も?)
それでもよく考えたら、ブツブツ独り言は言ってました。今思えば、かなり危ない人ですね。
さらによく考えたら、図書館で本を読んだり、ノートに文字を書いたりしていました。
ごはんを食べるときも目で文字を追いかけたりしていました。
当時、何かテーマを決めて自分で考えることもしていました。自分のモヤモヤした気持ちを整理しようとしたときは、絵のイメージではなく、言葉でやっていました。
音楽を聴くときも、旋律だけでは満足できず、歌詞を聴いていました。
つまり、一番しゃべらない時期であっても、私は、文字・言葉から逃れられていなかったのです。
3 今の生活
考えてみると、今も昔も、言葉によるコミュニケーションが多くても少なくても、私は文字と言葉に囲まれ、文字と言葉に頼って生きてきたようです。
時が経ち、今は家族と暮らし、公私にわたってより多くの文字と言葉に接しているように思います。
1つ1つの文字や言葉に、それを書いたり発言した人の思いまで、感じ取っているような気がします。(例えば、広告なら「とにかくこれを買ってくれ!」「こっちを見て!見て!」「これ(私)、いいでしょ!」など)。
歩いていてもそうですが、特に電車やバスだと、たくさんの人の姿とともに、いやでも文字が目に入ってきます。
目をそらしたり、心を無にしてやり過ごすことも、生きていくために大事な工夫でしょう。ただ、やり過ごしたつもりでも、目を通じて心のどこかに入ってくる感じもします。
他方で、私だって発信者ですから被害者面ばかりはできません。ブログ記事を告知したり、「けんしんフォント」を宣伝したり、押してほしいボタンを設置していますので。あまり人のことは言えません。
個人的には、なるべくよい思いのこもった文字が多く目に入るようにしようと意識しています。むしろ、思いがほとんどこもっていない文字を見て、ホッとしてリラックスすることもあります。
どんなときに、思いのこもった文字を見るのがよいのか。思いのこもっていない文字の方が心地よいときは、どんなときか。
自分でも整理とバランスを模索中です。特に手書き文字の場合は、活字と比べて情報量(思いがこもった量を含む)が多いので、もっとバランスを取ることが難しいでしょう。
主に都市部で暮らしている人は、生活の内容のことで悩み、生きにくさを感じているように見えて、実は、単に目に入ってくる文字の処理だけでしんどさを感じていることも多いかもしれません。
私は、時々、パソコンのモニターやスマホで風景や動物の写真を見てホッとします。
なぜホッとするのか。
それは、普段の心配事から一時的に逃れられるからかもしれません。
ですが、もっと単純な話かもしれません。文字・言葉の処理からひととき解放されたから、という場合も多そうです。
今日のお話は以上です。
今回の記事は、娘との会話と文字のやりとりから考えてみました。
なぜ娘は私の帰宅時間を知りたかったのか。
連絡板(備忘録)上で文字で問い合わせると妻に叱られそうなので、娘に直接聞いてみようと思います。
【2017年5月24日追記】
後日、娘に確認しました。夜更かしして帰っていたら、朝私の尻をたたいて起こそうと思っていたそうです。
私の睡眠時間を計算し、私を強めに起こすかどうかを判断する材料にしていたのでしょうか。
私の読みどおりでした。
【以上追記終わり】
会話と文字のバランス、絵・写真と文字のバランス、活字と手書き文字のバランス、などなど。まだまだ考えることはありそうです。
引き続き文字について考えていこうと思います。
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